スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:-- | スポンサー広告 | edit | page top↑

メタリックマインド


ひと月よりちょっと超過しちゃったかな、お久しぶりです。
別段忙しいというわけでもありませんでしたが、なんとなく億劫になって書けていませんでした。
文章を認めたくなる時というのは書き手に何か椿事があった時で、特にそんなこともなく平穏たる日常をぐるぐる巡っているような状態ではそんな気分にもならないものです。

1ヶ月もあれば色々考えるべきこと、考えさせられることも多くありますが、過ぎ去った5月という月は私の中でも意味のある月なのです。
と、言いますのも18日は私の誕生日だったわけで、早くも22歳を迎えることになりました。
21歳の私は何をしていたのかと申しますと、病院のベッドの上で、自身の無力さを痛感しておりました。
ちょうど入院していた時期だったので21年生きていたうちで最も虚しくも悲しい誕生日でした。

それももう過ぎたこととなり、早くも22歳になってしまったわけです。
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」という言葉がありますが、時という目まぐるしく往来を続ける永遠の旅人を卑近に感じざるを得ませんでしたね。私が旅人を思う時、旅人もまた私という存在を受けて動いているのかもしれない。
普段生活していてもそこに時を感じることはないでしょうけれど、誕生日という経時を認識するときに初めて私は22年を感じますし、22年もまた私を感じるのでしょう。

これ以上頭のいい文章を捻り出せそうにないので年齢の話はここまで。以下に記すのは直近の出来事など。

直近の出来事と言いますと今朝方3次選考まで受けた企業から連絡が来て、残念ながら貴意に添いかねる結果となりましたと書かれておりました。
役員面接まで到達したのは初めてだったので、まあ期待半分、不安も半分といったような具合で面接を行い、結果がそうなったということです。
受けた精神的ダメージは50000倍くらいです。
ツイッターでどんなことでも書き散らしてやろうか、考えたことは色々ありまして、やはり大勢の目につくところであまり気分の良くないツイートはしたくはありませんで、フォロー0,フォロワー0の新しいアカウントでも構築しようかというところまでは心内に留めておりました。
結局、このグチャグチャにされた感情をまき散らす場所を考えに考えた結果、どうせ誰も見ていないブログがあるということで、今に至っております。

企業から不採用の通知を頂戴する度、深い猜疑心に囚われて他人を信用する気が一時的とはいえ、一切なくなってしまいます。
能動的に人に会えるような気持ちにもなりませんし、狭い殻に閉じこもってそのまま窒息して息を引き取りたいとまで思います。
結局しないんですけどね、弱いもので。
自分から滲出するそういった慰めて欲しい、構って欲しいという汚らしい言葉や感情にも嫌気が差してより一層自責の念に駆り立てられるところまでがセットになっていて、そういった自分がいることを客観視出来てしまう自分にもまた嫌悪します。
一番憎たらしいのは「どうせ全部自分が悪い」と思う自分がいることですかね。
単純に気持ち悪いんですよ。実際に悪かろうが悪くなかろうが、まあ結局至らなかった私が悪くて、他の人は全部正義で、私の中に肯定できる正義なんてどこにもなくて、誰かの正義のためだけにただ生かされているだけに過ぎなくて、それを除く他の利害とは一切与り知らずである存在でしかないんだって、一瞬でそう思うわけです。気持ち悪い以外のどんな感情も流石に身をすくめて出てきませんよ。自己犠牲という陶酔の中でしか生きられないような息をするゴミなんですわな。

こういった負の感情の濃度が増せば増すほど、周囲をすべて拒絶していきたくなりますし、自分を肯定してくれようとする万物に対しても疑心暗鬼になって触れることさえ恐ろしく感じてしまいます。
こんなクズで社会にも適合できないような生ごみの、どこに肯定要素がある?
もっと他にまともな人間はいくらでもいるよ。もっときみにとって、有益である存在はもっともっといる。
私である必要はないよね?お願いだから、私がもう、耐えられないから、君に釣り合わないから。

相対的に自分の無能さと相手の有能さを理解してしまう瞬間が一番残酷ですし、絶大な劣等感を受けて死に直面するような感覚にすら陥ります。
ずっとそうやって過ごしてきました。負けたくない、負けない、私が勝ってみせる、私の方が上だと、そう信じて、そうやって思い込んで、それをモチベーションにし続けて、相手が上空遥か遠くの雲の彼方の存在であることに気付いた時には既に遅い。
私は勝手なライバル視や普段の素行から相手を見下して、常に上に立ったような気分でいることでしか自分を保てなかった。
それがひっくり返された(というかそもそも上に立てていた時など一秒たりともなかった)時に妬みも怒りも悲しみも全て受けてしまって、相手も自分も否定して逃げ出してしまうのです。
今もそうなのかもしれない。

日中ツイッターにも少し書きましたが、「俺/私もできたんだから、お前にも出来るよ」という言い回しにはなんの意味も励ましもないんです。
それはただ相手を深く傷つける可能性を大いに孕んだだけの爆弾であり、誰もいい思いをすることはない。
貴方は貴方だし、私は私だ。そこに共通項は何一つないし、貴方が思うほど私も、そして貴方自身も単純なものはなく複雑怪奇なのだ。

現実でも、ゲームでもうまくいかなくなったら、人は一体何処へ逃げこむことが出来るというのか。
虚無に身を投じて、暗闇の孤独をひしと感じ続けて、そのまま肉体から、思考から自身を乖離させていくことでしか、己を保つことは出来なくなってしまうのだろうか。
或いは、自己保持を考えることそれ自体、空虚であるか。
正しさとは何か。世界に物差しはない。等身大の自分でしか、自分も、世界でさえも計れない。
だのに、私を計ろうとするのはどういった都合であろう。自分の物差しを他人に当てるとは何たる愚行か。
それは、何を謀っている?

良くないことが続いて、気分のいい人間なんてどこにもいやしません。
他人の不幸が蜜の味を秘めているように、幸福も、時には強烈な毒になり得る。
説得力の欠片もありませんが、他人を気にして生きるのは実にバカらしいことですし、自分本位で生きるのが一番ですよ。

23:36 | 雑記 | comments (0) | edit | page top↑
光れ | top |

comments

post a comment

管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。